菊池洋六さんの戦争体験談
市内在住の菊池洋六さん(令和8年(2026年)6月現在97歳。戦争当時15歳)の戦争体験について、市職員がインタビューし、内容を一部要約して掲載しています。

当時の菊池さんの写真(後列右側がご本人)
15歳で入隊
- 昭和16年(1941年)12月8日、私は旧制中学2年生、12歳で登校中、民家からのラジオ放送で日本海軍航空隊が真珠湾のアメリカ艦隊を奇襲攻撃したという情報を知りました。これが太平洋戦争の始まりでした。当時、学校教育は戦時教育だったので、驚きもせず、成り行きだろうと少し興奮した程度でした。
- 昭和19年(1944年)、私は中学4年生、つまり15歳で入隊しました。当時は20歳で入隊するのが通常で、大学生は特攻隊員となりましたが、私は当時中学生で、志願兵として応募しました。中等学生の陸軍特別幹部候補生に応募し、8月15日、静岡県浜松にある三方原陸軍航空隊に入隊しました。親兄弟と永遠の別れを覚悟しての入隊でした。
- 当日は浜松上空に飛行機が飛び交い、入隊者を歓迎していました。浜松駅前でトラックに乗せられ、三方原陸軍航空隊の兵舎に到着すると、すぐに軍服が支給され着替えさせられました。私服を着替え、軍靴を履き、40人の新入分隊生と一緒に荷造りをしました。
荷造りをしていたところ、古参兵から、今日から軍人になったのだから、荷造りに何時間もかかるのかと怒られました。古参兵に、40人の新入隊生の頬を1発ずつ、スリッパで叩かれました。
軍隊生活は、6時ごろにご飯が出されることから始まりました。ご飯作っているところに行き、6人の当番で40人分のご飯と味噌汁、それから漬物をもらい、食事の分隊に戻ると、テーブルに40人分の食事をその当番の6人で並べて、ご飯を食べました。その日から、厳しい生活が始まりました。

当時の菊池さんの写真
厳しい軍隊生活
- 次の日から、私は航空隊の中でも通信兵として訓練を受けました。飛行機を操縦するのではなく、陸にいて飛行機と通信する仕事でした。
- まず、50音の「いろはにほへと」のうち、毎日、2つずつの音(モールス信号)を覚えさせられました。午前中の4時間、部屋に全員集まって、今日は「い」と「は」とか、「ろ」と「く」とか音の組み合わせで勉強させられました。「トツー」「トツー」と、口で言いながら暗記しなければなりませんでした。次の日も2つ、その次の日も2つ、3ヶ月で50音を全部覚えました。
日曜日に外出して街を歩いているとき、魚屋や八百屋の前に行くと、魚や野菜を「トツー」「トツー」と言いたくなってしまい、通信兵だということがすぐにわかってしまうほどでした。3ヶ月で50音と数字の教育(モールス信号)を受けました。
- その次は、40人が全員テーブルにつき、信号を機械で打つ練習をしました。教官は信号を聞いて、誰が打っているか、正確に打っているか音で判断しました。適当にやっていると殴られるので、嫌でも覚えなければなりませんでした。信号を発信する訓練の次は、信号を聞き取り、暗号を読み解く訓練です。「今日は天気、明日は雨」など、暗号で情報を伝えられ、暗号表で翻訳します。アメリカに傍受されないように暗号化していたのです。
訓練中に昨日の復習をする際、名指しされ、不正解だと何千ボルトという電圧の送信機を触れと言われる人もいました。腕を伸ばすと電流が心臓にいってしまうので、腕を曲げて触れと言われました。電流が肘から抜けて、肉の焼ける嫌な匂いがしました。そのような酷い教育を受けるから、みんな必死で復習をしなければなりませんでした。
- 教育を6ヶ月間受けると、送信も受信も覚えました。今度は実際に飛んでいる飛行機とやり取りをする訓練をしました。ところが、その頃には戦況も傾いてきており、自分が訓練する飛行機もなくなっていました。卒業はしたものの、実戦にはつけませんでした。
戦時中に辛かったこと
- 当時の軍隊生活で辛かったことは、毎日、必ず殴られたことです。共同生活なので、40人全員が殴られました。当時、靴掃除当番がおり、必ず毎日靴を掃除しなければなりませんでした。1人が5人分の靴を掃除しました。雨の日には、靴をきれいにするのが大変でした。泥がついていると、夜の食事前に必ず検査され、「その靴を持ってこい。こんな掃除があるか。靴の底を舐めろ!」と言われ、舐めさせられました。そして、もう一度、汚れた靴を水で洗ってやり直すよう言われました。
みんな殴られて泣く場所もないので、トイレはいつも満員でした。夜になるとトイレは泣く場所になっていました。食事が終わったら、トイレに行って泣いている人ばかりです。14、5歳で、国を守ろうと意気込んで行ったものの、殴られるのが怖いばかりで、辛い生活でした。
- (奥様の体験談も交えて)当時は女学生時代から戦争中で、勉強する時間もなく、出席を取るとトラックで連れていかれ、今日は農家の手伝い、今日は炭焼きの手伝い、今日は鉄道道路工事の手伝いといったように、色々な手伝いをさせられました。
寝る時も空襲があるため服を着たまま、夜も眠れず体を休められませんでした。食べ物はよもぎや山菜、かぼちゃ、豆、さつまいものほか、大根をお米と一緒に炊いたもの。買い求めたお米を持っていると警察に見つかり没収されてしまいました。栄養がなく、身長もほとんど伸びないくらいでした。
- 戦後もすぐに働かなければならず、勉強どころではありませんでした。
終戦を迎えて
- 終戦が近くなると、日本の軍艦も飛行機もなくなり、昼間にアメリカの飛行機が堂々と飛んでいました。アメリカが自動小銃(撃った時の反動などを利用して、次の弾を自動的にこめる小銃)を使っているときに、日本では鉄という鉄がなくなり、鉄砲もなく、女学生が竹槍を握っているような状況でした。軍隊では、訓練中に使い捨てのはずの薬莢(銃弾の火薬を包んである金属)を拾い集めて、再利用しており、全部見つからないと殴られるほど物資が枯渇していたため、その様子を見ているともう勝てないのだなと思ってしまうほどでした。
- 昭和20年(1945年)8月15日、終戦がわかったときは、やっぱり負けたかと思い、涙も出ませんでした。
メッセージ
菊池さんからは、「今の時代は若者が自由に学ぶことができる幸せな時代。戦争は二度とあってはいけないものです。国の明日を担う政治家や官僚各位の、道を過たぬ指導を切に願っております。」というメッセージをいただきました。

現在の菊池さん(左側)と奥様の写真