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ページ番号:2376
掲載開始日:2019年11月28日更新日:2019年11月28日
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国指定史跡深大寺城跡
史跡の概要
深大寺城跡は、16世紀前半に南関東を舞台に繰り広げられた上杉氏と小田原北条氏(以下、北条氏と記す)との攻防の中、扇谷上杉氏が再興した戦国時代前期の城館跡です。平成19年(2007年)7月に一部が国史跡に指定されました。
この城跡は、関東平野南部に広がる武蔵野台地の南端部、標高約50メートルの舌状台地(武蔵野段丘の一部)の突端部につくられた平山城です。
また、発掘調査の成果により、深大寺城は主郭(本丸)を中心として、空堀と土塁に囲まれた3つの郭(曲輪)を直線上に配置した連郭(れんかく)式縄張の中世城郭であることが明らかになっています。
深大寺城跡は、奇しくも初期の目的を達成する前に廃城になったこともあり、北条氏による改変を受けずに扇谷上杉氏系の築城技術を残す希少な城館跡です。
深大寺城跡の考古学的調査
昭和33から44年(1958から69)にかけて行われた発掘調査では、第1郭内で少なくとも4棟、第2郭内で9棟の掘立柱建物群と新旧の空堀跡が確認されました。また、第2郭の西側で空堀跡の一部が確認され、第3郭の存在が明らかになりました。地形測量は断続的に行われ、昭和44年(1969)までに城郭の縄張がほぼ網羅されました。
遺物は、近世陶磁器が165点、中世陶磁器が34点、カワラケ・土鍋・火鉢・土風炉などの土器類が66点出土しています。中世陶磁器は14から16世紀の舶載青磁碗、瀬戸・美濃系天目茶碗や擂鉢、常滑系甕などが少量出土しています。
カワラケの中には、扇谷上杉氏関連の城館跡で出土する「渦巻きかわらけ」と同種のものがみられ、15世紀末から16世紀前半と考えられています。しかし、この地域が北条氏の領国となる16世紀後半以降の遺物がほとんどみられないことから、深大寺城は北条氏の勢力下に入っても改変されずに、そのまま廃城になったと考えられます。
深大寺城の縄張と築城年代
縄張
深大寺城の連郭式縄張をみると、舌状台地先端の第1郭が主郭と考えられ、その北側から西側を取り囲むように第2郭、さらにその西側に第3郭が直線的に連続して配置されています。
築城年代
深大寺城は、新旧2時期の空堀跡の存在が明らかになっていますが、深大寺城の第1期は、15世紀末(1490年前後)に扇谷上杉定正が山内上杉氏に対抗して築造した城で(篠窪三郎左衛門尉宛て上杉定正書状)、旧空堀跡は「河越記」等の文献史料にみられる「ふるき郭」にあたります。
一方、第2期の空堀跡は16世紀前半の構築で、扇谷上杉朝定の再興段階(天文6年(1537))に相当することが確定しています(玉縄城主北条為昌書状)。
都指定史跡から国指定史跡へ
深大寺城跡は、大正9年(1920)に鳥羽正雄氏らによって踏査され、昭和2年(1927)に「東京近郊史蹟案内」の中で扇谷上杉氏の属城として紹介されて以来、都の史跡として指定されていました。
平成17年(2005)に第3郭内の宅地造成計画に伴う調査で空堀や土橋が発掘されたことが契機となり、深大寺城跡は、北条方による改変を受けずに扇谷上杉氏系の築城技術を残す希少な城館跡であり、関東における戦国大名や城郭の変遷を知るうえで貴重であること、また都心近郊にありながら腰郭、土塁、空堀などの遺構が良好な形で残っていることが再評価され、平成19年(2007年)7月26日に、都指定史跡の範囲(第1郭、第2郭、第3郭南側斜面の一部)に第3郭の空堀の一部を加えた約24,000平方メートルの地区が新たに国の史跡として指定されました。
史跡の保存と公開活用
深大寺地区は、武蔵野の面影を残す国分寺崖線の雑木林と湧水に恵まれた緑豊かな地域です。また、史跡深大寺城跡や古刹深大寺の国の重要文化財をはじめとする数多くの歴史遺産を有する地域でもあります。
史跡深大寺城跡は、都建設局によって第1郭と第2郭の空堀や土塁等が復元整備され、平成9年(1997年)6月から都立神代植物公園の分園である水生植物園の城山地区として公開されています。
調布市としては、今後、保護すべき区域の追加指定と公有化を進めるとともに、将来的には第3郭を復元整備し、第1郭・第2郭に第3郭を加えた史跡公園として公開活用を図っていきたいと考えています。